2007年05月 アーカイブ

スポーツと教育

プロ野球の裏金問題からはじまり高校野球の特待制度のニュースが連日報道されていますが、トレーナーとして特に学生年代をサポートしていると、何かと考えさせられます。
私はちょうど高校生の年代を海外でプレーをし、中学時代もクラブチーム所属だったので部活動というものを、全くといってもいいほど知りませんでした。一番最初に高校の部活動をサポートさせて頂いた時は正直カルチャーショックでした。選手の数、練習内容、怪我人への多さ・対応の悪さ、選手の意識、トレーニングの内容といい本当に衝撃的でした。
私は決してプレーヤーとしてレベルの高い選手ではありませんでしたが、一応プロクラブのジュニアに所属し日々トレーニングをしていたので、選手数が100名を超え練習が殆ど出来ないとか指導者の目が行き届かないなどという事はありません、目的や理由のない非効率的な事は絶対に行いません、怪我人に対してもしっかりとサポートされていました。選手の意識に関しては色々でしたが、身近にいつもプロ選手がいたので、プロとして成功している選手にはやはり何か人間的に魅力を子供ながらにも感じました。
プロの世界である以上は厳しさがあったのも事実です。ある朝クビを宣告され荷物をまとめ田舎へ帰る選手もいました。そんな環境なので教育を充分にうけられていないのも事実で、貧困な街の出身の選手は生まれた年を知らない選手もいました。
ある友達がある日すごい笑顔で私に『学校へ行けるようになった』と言って来ました。聞くとその選手は今までも教育を受けた事がないので読み書きが出来ないというのです。もっと驚いたのは学校に行くために書類用に自分の誕生日を決めると言うのです。私は言葉を失いました。学校が嫌で嫌で仕方なかった自分を恥ずかしく思いました。あの出来事が現在の自分の学習意欲につながっているのかもしれません、
 日本の部活動というのは、教育現場でおこなわれるスポーツですから選手の教育(学習)という点では当然ですが利点が大いにあると思います。スポーツと教育というのが今回も大きな問題となっているのだと思うんですが(もちろん野球界のプロ・アマ間の問題が一番でしょうが)、教育の一環としてスポーツをするのか、スポーツを通じて教育をするのか、これは大きな違いがあります。どちらが良いとは一概には言えないと思いますが、当然ですがどちらにもメリットがありデメリットがあると感じます。
今回の件含め多くの場合日本では、教育の一環としてスポーツをとらえているという事が多いのではないでしょうか?私自身は教育の一環としてスポーツをした事はないので非常に違和感を覚えます。教育の一環としてスポーツをする事のメリットは大いにあるとは思いますが、
 私はスポーツを通じて多くの事を学びましたし、成長させてもらいました。これはスポーツによって教育されたと感じています。日本はもっともっとスポーツのもつ可能性にかけてもいいのではないでしょうか?施設の面や学力的な面など部活動の持つ利点は大いにあると思いますが、スポーツのもつ可能性にももう少しかけてみてはと思ってしまいます。

教育・育成  MCATへ・・・

『教育』『育成』という二つの言葉を広辞苑で調べると、教育は『教え育てること。人を教えて知能をつけること。人間に他から意図をもって働きかけ、望ましい姿に変化させ、価値を実現する活動』 育成は『やしないそだてること。立派に育て上げること。』となっています。スタッフ教育、人材育成、本当に難しいですが、ここにかける情熱がもしかしたら組織の力の根源であるのではと、若輩の分際で生意気な意見かとは思いますが、未熟が故の多事多難の日々で感じています。
我々にとって教育、育成とは、専門職である以上Knowledge(知識・学識)をbaseに教育をし育成していく事だと捉えています。言意にあるように教育とは、教え育て、知能をつける事は勿論ですが、意図をもち価値のある望ましい人材になるべく働きかける事が最も大切と考えています。
何かを伝える以上は、伝える側は意図をもち伝え、受け手が意図を理解し変化し、自分なりの価値を見出して意味があるのではないでしょうか?
伝える方法は様々ですが、伝える側は自身の見解にphilosophy(哲学)をもち、伝えたことに責任をもつ、ただ『教えた』『言った』では伝えた事にはなりません、
私は自分自身が未熟であるからこそですが、自身の意図した、望んだ事が伝わらない、もしくは他から見た時に成長がみられないような意見が聞かれた場合、これは私自身の成長が至らないかった事でもあると捉えています。
見方を変えれば仲間というのは自分自身の鏡ではないかと思っています。自分自身が浮き足立って何かを伝えれば、不思議な者で自信をもっては貰えないもので、自分が意気阻喪の時には、意欲すら奪ってしまう気がします。
先輩であれ後輩であれ仲間である以上は、教育、育成を通じ目に見えない何かが働き組織のvektor(ベクトル)の向きが決る、決ってしまう気がします。
MCATには櫻井順、鈴木章史というスポーツの第一線で活躍するトレーナーがいます。私自身含め一歩でも彼らに近づけるように、若い集団だからこそ、何よりも互いに刺激しあうという情熱、意欲だけは失わずに、仲間に何かを伝え、仲間から多くの刺激を受け取るという何気ない作業の中で成長していけたらと思っています。

Pride=自尊心

自分の仕事にどうしたらPrideをもてるのでしょうか?もってもらえるのでしょうか?
 自尊心の言意は『自尊の気持ち。特に、自分の尊厳を意識、主張して、他人からの干渉を排除しようとする心理、態度』となっています。つまり自分の中で尊く侵しがたい確固たる物に対し、意と反する干渉を許しがたいと感じる事や行動という事になる。これは表現のしかた一つではトラブルになりかねない事です。
 よく『Prideが高い』とか、『いらないPride』とか言いますが、Prideにそんな尺度があるのでしょうか?自分自身の尊く侵しがたい確固たるものを守るのに、高い?低い?いる?いらない?なんか変じゃないですか?
 私にとってスポーツ・トレーニング、スポーツ現場におけるスポーツのためのトレーニングとは尊く侵しがたいものです。しかしプロとして職として生きていくのは甘い事ではありません、時として自尊心を奥にしまい受け入れなくてはならない事が多々あるはずです。仕事にPrideを持つために、やはり受け入れがたい事を、受け入れ自分の中の尊く確固たる侵しがたいものを自分自身で守るしかない気がします。守り続けるためには受け入れがたい部分への能力を高める事だと考えています。
 MCATの1人で鈴木章史というトレーナーがいます。私より3つ年上で、箕山クリニックがきっかけで知り合った仲間です。人生の先輩ではあり、最も尊敬し信頼する仲間です。鈴木章史という男は、仕事、ATという仕事に対しものすごいPrideを持ち、その確固たるものが決してぶれない、多事を受け入れつつも明確なビジョンを持ち着実に進歩しています。
 鈴木トレーナーをみて思うのは、自分自身の仕事に何よりも尊く侵しがたい確固たるものを一つの芯として持たない人間は、一生仕事にPrideなど絶対に絶対に持てないと思っています。その芯がなかったり、守る術や努力が出来ない人間が『いらないPride』持ったり『Prideが高い』と感じるのではないでしょうか?
 これは逆にいえば、仕事にPrideをもっている人間が集まればトラブルもあるだろうが、お互いにぶれない芯のもとに多事を受け入れ、進化していけるはずだと信じています。Prideのない仕事なんて仕事ではない
 Prideにはけなして、うぬぼれ、思い上がり、高慢の意味もありますが、芯のない人間のPrideはそんな気がします(笑)